『カナンガ・オドラータ』
コンビニから帰ると、居るはずの無いヒバリがリビングでくつろいでいた。
不法侵入の現行犯だ。どこから入ったと右往左往する俺に対し、ヒバリは「はい、プレゼント」と有無を言わさぬ態度で紙袋を押し付けてきて反省の色は無い。
どういった風の吹き回しだろう、普段はプレゼントなんてくれない、淡白な『恋人』なのに。
――もしかして後ろ暗い事でもあるのか?
思わず眉を顰め、訝しげに開封をしてしまった。そんな俺を、贈り主は愉快そうに見つめてくる。
「爆弾なんて入ってないよ」
「何だよ、これ。『世界の不思議図鑑』を勝手に持って帰った事についての詫びか?」
「その件については、僕は少しも悪いと思っていない」
全五冊がごっそり抜けた書棚を横目で確認する。読みたいのなら、一言「借りる」と言えば済むだけなのに。
まあ、勝手に部屋に入るような奴だ。俺の私物を持ち去るのに罪悪感などこれっぽちも無いのだろう。
呆れたように、ヒバリはこっちが吐きたい溜息を尊大についた。
「今日が自分の誕生日だって、忘れてたの?」
「・・・あっ。そうだった、俺の誕生日だった」
今日は九月九日。
自分の生まれた日など気にしていなかったから、すっかり忘れていた。
「ま、覚えていないと思っていたけど。・・・ねえ、とにかく開けてみてよ」
袋には、最近俺が気に入って通い詰めている、インテリア専門店のロゴが印字されていた。
急かされ、中身をテーブルに出してみた。茶色の小さな遮光瓶が数個転がり、最後に木箱がゴロンと飛び出す。
薬瓶ではないらしい。貼られているラベルは可愛らしいデザインだ。
「アロマオイル?」
「正解。で、そっちがアロマランプ」
ヒバリは木箱の中身をテーブルに置く。素焼きのシンプルなものだ。コンセントに差して使うタイプらしい。
「何でアロマオイル?」
「隼人の喧嘩っ早さを抑えようと思って」
確かに、アロマオイルには気持ちを落ち着かせる鎮静効果がある。
昨日も他校生に絡まれ、余計な怪我をした俺にはぐうの音も出ない。左腕にあるガーゼを服の上からそっと押さえてしまう。
だからって、アロマオイルをわざわざ買ってくるなんて嫌味ったらしい。不貞腐れ、プイッと顔を背けてやる。
でも、怒る気持ちはすぐに削がれた。俺を心配してくれての選択だし、理由はどうあれコイツが物をくれるなんて珍しい事だし、何より誕生日を祝ってくれるのが嬉しかったから。
「・・・サンキュ。大事にする」
「うん」
自然と顔が綻んだ。呼応するようにヒバリも目許を緩め、テーブルに手をついて身を乗り出してくる。
近づいてくる顔は手前で制した。
「ちょっと待て。こっちを先にしろ」
不服そうだが、ヒバリは大人しく着席する。贈り主としても早く楽しんで貰いたいようだ。
小瓶は五個。一つずつラベルを読み上げていく。
「ダマスクローズ、サイプレス、シトロネラ、ラベンダー、それとイランイラン」
「早速、使ってみたら?」
そう言うやヒバリは腰を下ろし、近くにあったコンセントにランプを差し込んだ。俺も隣に座り、どれにするか悩む。
「ラベンダーは寝る時に使いたいな」
「隼人はアロマオイルの知識がある方?」
「そんなに詳しくはない。ラベンダーには安眠効果があるって事くらいは知ってるけど」
おもむろにダマスクローズの瓶をヒバリの手に乗せた。
「これは前読んだ本に書いてあった。クレオパトラも愛用したブルガリアの薔薇が原料なんだって。抗菌作用が高くて、体臭を抑える効果もあるらしいぜ」
「謙遜。十分博識じゃない」
素直に感心する姿が可愛い。
胸に這いずるムズムズしたものを抑え、イランイランの蓋を開けた。無言のまま数滴ランプに落とし、スイッチをオンにする。
直後、ヒバリの眼が大きく開かれ慌ててしまった。「これに決めた」と言う前に蓋を開けランプを点けたからって、そんなに驚かなくてもいいじゃないか。
「な、何だよ。俺が選んじゃダメなのか?」
「ううん。そうじゃないんだけど、・・・これを選んだ理由は?」
「え? 別に意味は無い。俺の知らないやつだったから、試しに落としてみただけ」
「そう・・・」
残念そうにシュンと眉を下げられ余計に慌てる。俺は凡ミスでもしたのか。
「ヒバリ?」
「いや、キミは悪くない。ただ、意味も無く選んだっていうのが、ちょっと」
「・・・?」
更に項垂れていき、こっちも哀しくなってしまった。
そんな沈んだ俺達の気持ちを浮上させるように、淡い灯から立ち上がる香りが全身を包みこんでくれた。
ジャスミンに似たフローラルな香りだ。オリエンタル的で少し個性が強い。好き嫌いが分かれるかもしれない。
「ヒバリ。もしかして、この匂い苦手?」
背を丸め、上目遣いで伺いを立てる。一瞬だけヒバリの喉が揺れた気がした。
「・・・苦手じゃない。どちらかと言うと好き」
「俺も好き。ちょっとだけ『ヒバリっぽい』し」
小瓶に鼻腔をつけ、そっと眼を閉じる。本当にヒバリのイメージに近い香りだ。このアロマを選んだ自分を褒めたい。
個性が強くて、嫌いな人は本当にダメ。
でも、俺は好き。大好き。
「へへっ」とふやけた笑みを零し、イランイランの香りをまた肺いっぱいに吸い込む。
余韻に浸っていると、人差し指を鼻先に押し付けられた。不意打ちに身が竦み上がる。
「この香り、僕っぽい?」
「え、・・・うん、何か嗅いでるとお前が傍にいるような気がする。ま、実際隣にいるんだけどさ」
「それって、僕に抱き締められているような錯覚が起きるって事?」
ちょっとだけ思っていたが、激しく頭を横に振って全面否定をした。
制する様に、いきなり横から強く抱き締められる。錯覚が現実になり更に身が竦んだ。
男二人がペタリとくっついた状態で座っている様は間抜け極まりないが、俺の動揺はそんな客観的な視点を成す余裕など無い。全く無い。
「いきなりくっつくな!」
「ねえ、イランイランって『喜びを与える香り』って言われてるんだって」
「は? 『喜びを与える』?」
「つまり、催淫効果があるって事」
「・・・へ?」
俺の手から小瓶が落ちる。
瞬時に顔がカアッと赤くなった。
「お、お前っ」
「インドネシアでは、イランイランの花びらを新婚夫婦が夜を過ごすために撒き散らす風習があるそうだよ。他のアロマの効能は知らないけど、これだけは知ってた」
床に転がる小瓶を手に、ヒバリは楽しそうに破顔する。
いくらイランイランの知識が無かったとはいえ、香りにうっとりしていた自分は催淫効果を肯定しているも同じだ。
付き合って三ヶ月。
そういう雰囲気になると極度に照れて、ヒバリと抱き合う事をいつも躊躇ってしまっていた。そろそろいいかな、と思っても恥かしさが小さな勇気を圧し折ってきた。
ヒバリも、何か切欠が欲しかったんだろう。
遠回しな小細工を使って誘ってくるなんて、やっぱり可愛い奴だ。普段は凶悪の権化なのに、こういう事になるといつも強気に出られない。
――誕生日だし、今日なら素直になれるかも・・・。
けど身体は素直じゃない、ヒバリの鼻先にシトロネラの小瓶を押し付けてしまう。
やっぱり無理。まだ無理。手を伸ばそうとすると照れてしまって固まってしまって・・・っ。
「何これ。シトロネラ?」
「・・・シトロネラは虫避けの効果がある、らしい」
「・・・・・・」
無言になるヒバリに小瓶を更に押し付けた。
途端に「ぶっ」と笑いを噴出される。小刻みに震えながら、俺の髪をグシャグシャに掻き混ぜていく。
「うまい切り返しだね、隼人。座布団を十枚あげるよ」
「・・・セットした髪が乱れる、やめろ」
軽く手を払い、まだ笑っているヒバリの脇腹を小突いてやった。
前髪で遮られた視界。ギュッと瞼を閉じ、その先にいる恋人にそっと寄り添う。
――イランイランの効果だけじゃない。俺だって本当は、ずっと前から・・・。
強めの甘い香りが、俺の思考も理性も、鼓動さえも激しくぐらつかせていくのを感じていた。
(了)